流星の曲がり角

流星とは本来曲がるはずのないもの。それが曲がるって事はつまりブラックホールだよねコレ

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世界は常に均等を保っている。
だから何をしても無駄だ。人間の悩みは人間がギャアギャア騒いでるだけである。
大を殺そうが小を殺そうが大差はない。数字の変動に意味はない。

一人殺して人殺し、百人殺して英雄か。
やってる事は命の共食いに大差はない。物理的に喰らうのなんて付加要素にすぎない。
むしろ物理的に喰らう方が無駄にならないか。
血肉にしてる分、ただ殺すよりかはマシに見えなくもない。

え、それはないって? それが一般論だからですね、わかります。
だって共食いって効率悪いじゃん? 気持ち悪いじゃん?
間接的に命を喰らうのはアリで直接は駄目。まぁ、人間の倫理観なんて所詮そんなもんです。
治安維持、秩序の維持にどれだけの人命が失われるか。
それは戦争であったり、組織への捜査であったり。
彼らの命を糧にする以上、それは共食いとやはり変わりはない。
人命は尊い? 今まで湯水のように浪費してきたと言うのに今更?
その命で社会が安定軌道に乗るのに? そうして安定したものに乗っているのに?

しかし共食いが嫌だって部分はわかる。
まぁ、知人を喰らえって言われて素直に喰う人は滅多にいないと思う。

例えば親戚の誰かが死んだとする。
で、悲しくて泣いたとする。
何故泣くのか? ってのは悲しいからなんだろうけど、何故悲しいのか?
会えなくなるからだろうか。
自分もいつかはそうやって死んで行くのを無意識に感じて恐怖するからだろうか。
その人の命を食い潰した現実でなお、自分が生きている事への絶望からだろうか。
誰だって悲しい思いを、どうしようもない恐怖を、抗う術もない絶望を味わおうと思って生きている訳ではない。
本能的に喰われるのが怖いからではないだろうか。
現実に、自分に、他人に、社会に、世界に。
他人の死を通して自分が有象無象の糧にされるのがたまらなく嫌だからではないだろうか。
誰だって自分本位に生きたい。自由に生きたい。自由がなくても、せめて自分は自分のものでありたい。
でも結局は喰われる。目に見えない、得体の知れない概念じみた化け物に喰われる。
自分の命は自分のものと思っていても結局はどこぞの誰かの、もしくは世界の糧である。
そんな絶望が根底にあるんじゃないだろうか。

人はどんな生き方をしても結局は死に至る。
どうしようもない絶望だと思う。生きていれば天国とか寝言は寝て言えって話だ。
こんな世界に生きる事を渇望する人間は相当なマゾな気がしなくもない。

だからでこそ、「誰も殺したくない」なんていう泣き言はどうしようもないドM思考における結論なのである。
それは1つの解だ。でも喰われるのなんか断固拒否したい。
「喰われて糧になれ」と命令してくる世界と、「喰らって糧としろ」と命じる生存本能。
どちらに傾いても自分の意思はない。与えられるのは選択権のみ。

世界の奴隷か、本能の奴隷か。奴隷である以上、大差はない。
自分達で第三の選択肢を出現させる事が人間の目指すところではないだろうか。

それが人類補完計画か。まぁ、それが惰弱なのかと言われれば思わんな。
むしろ奴隷から解放された時にどうなるのか、それがわからないから悪いものとして描かれるのかな。

どんだけ自由を欲してもいても、ある程度の命令を受けて過ごした方が生き易い。
その方が余程惰弱に思えるな。

あぁ、下らない。

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